2010年10月2日土曜日

部分からのデザイン

藤本壮介さんの「部分の建築」という考え方にすごく関心がある。
ある全体像を規定してから細部を決定していくやり方ではなく、
部分と部分の小さな関係性の積み重ねで建築を作るという考え方。
これは、全く新しい考え方というよりも、日本的というか、
今の自分のものをデザインするときの感覚や情報生活の感覚に
すっと入ってくる感じがした。

グラフィックデザインに関して言うと、
ざっくり、本当にざっくりした流れで言えば、
まず必要とされることで無自覚にデザインされる時代、
徐々に意識化されて、工芸的な専門性を獲得する時代、
変革、破壊の時代、
標準化、均質化、構造化の時代
を経て、さて今、というところに居るんではと思っていて、
CIのような、あるビジュアルアイデンティティを定義して、
そこから生み出されるデザインを標準化していく、みたいな考え方が、
ある程度一般的になりつつある中、たまに違和感を僕は感じていたりする。

雑誌のデザインであれば、やっぱり全体として予算が縮小されていく流れがあったり、
雑誌ゆえの納期の短さに由来すある一定のクオリティを保つためのフォーマット化。
自分の「作業」が減っていく分、デザインするうえでの「余白」のなさが、
デザイナー自身の創造性を制限しているような感覚。
いやそれは受け止め方の問題で、
ポジティブに見れば、いかにそのフォーマットを壊し続けていくか、が
創造性なんだという見方もあるし、
デザインをする上で、どこまでを「決めておく」のか、っていうのは、
僕の中で最近結構よく考え込んでしまうことではある。

だから、「部分の建築」という考え方は、
自分がデザインをする上ですごく気になる考え方だし、
恐らく雑誌でなく例えば広告の考え方であれば、
日々、お題に対するイメージの更新によって
連続した関係性を持ちながら変わっていくというのは自然に行われてることで。
そしてその触れ幅を調整する感覚っていうのは、
もしかしたらエディトリアルとかアドバタイジングとか、
そういう分野の違いによってどうこうというよりも、
人の性格のような要素に近くて、
要はいかにデザインする対象の「性格」を読み取るか、
っていうのも大事なんだなぁと。
この雑誌は「飽きっぽい」奴だな、とか、
なんかB型っぽい、とか。
雑誌の血液型診断とかやってみると面白いかも 笑

突き詰めると、
書体と、サイズと、位置の関係、
そこにいかに文字以外の要素を組み合わせるか、
ということでしかない中で、
(これは狭いという意味ではなく無限に広がりを持ってるという意味で)
じゃぁ何の書体を選ぶかとか、何級にするかとか、
そういうことはもちろん大事なんだけど、
もっと全体を包む「性格」や「たたずまい」に目を向けたデザインを
したいんですな。当たり前なんだけど、
作り込んでいると、ふとどっちを向いてるのかわからなくなってくるわけです。

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